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中島敦

2009年06月06日 11:09

中島敦 (ちくま日本文学 12)中島敦 (ちくま日本文学 12)
(2008/03/10)
中島 敦

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小説の文体において、その日本語としての臨界点を提示する作家、中島敦。
彼の意味の含有率が濃く、それでいて切れ味の鋭い文体には、日本語の表現能力の奥深さと、そのあらゆる文化・言語を貪欲に吸収し自言語の表現力に変換出来うる柔軟性を感じさせられる。

中島敦の文体は、漱石や志賀直哉のそれとも一線を画す。
文体の持つ哲学性は共通項であるが、彼は余計なことを書かない。簡潔な言葉にそれを内在させ、解釈は読み手に委ねられる。

彼は33歳という若さで亡くなった。
文壇に彼の作品が発表され衝撃を与えたとき、既に彼は存在をしていなかった。

喘息の死の床で彼が最期に言った言葉は
「頭の中にあるものを全て吐き出してしまいたい」であったという。
彼は彼の頭の中にどのような宇宙と怪物を内在していたのか。
それが公にならなかったことはとても残念である。

彼の残した作品は数こそ少ないが、そこに残された意味という宇宙はどこまでも続いていく。
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漱石

2009年05月30日 15:51

人間のエゴイズム、そこにおける是非。人間とは、人間の意味とは。漱石を読んでいると考えないではいられない。コミカルタッチの作品もあるのだが、そういった作品に限ってなんでもない描写の中に人間の真理が見え、そこに考えさせられる。

「こころ」
こゝろ (角川文庫)こゝろ (角川文庫)
(2004/05)
夏目 漱石

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漱石といえば「こころ」。
ストーリー解説は不要だろう。人間のエゴイズムと、そこに翻弄される人物を描く。
エゴイズムに関する漱石の贖罪の念が前面に押し出されており、その描き方はあまりに生々しく、読んだ後の放心感はかなり高い。あそこまで追い込まれ、結果自ら命を絶ってしまう先生に、ある種の美意識を感じる。
又、「こころ」にかぎらず、漱石の作中に現れる東京に関する記述。これが漱石の文章にリズム感をもたせ、作品世界をより鮮やかにしているように思われる。


「三四郎」
三四郎 (角川文庫)三四郎 (角川文庫)
(1951/10)
夏目 漱石

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東京帝国大学を舞台に繰り広げられる青春群像。「それから」「門」へと続く三部作の序章となる作品である。そのタッチは非常に淡く、心と理性の狭間で揺れ動く微妙な恋愛模様を、帝国大学の学生生活、日の目を浴びない哲学者、無鉄砲な活動家、モグラ生活の研究者との関わりを通して描く。
主人公・三四郎は熊本から上京した大学生。地方と中央社会のギャップを描く三四郎の心理面の模様は、地方出身者のマージナルとしての側面を華麗に描く。私はまさにその該当者であったので、そこに非常にひきつけられた。
ある学生のひとつの恋愛。「無意識の偽善」。誰しもが通る道。三部作の序章は爽やかに幕を閉じる。


「それから」
それから (角川文庫)それから (角川文庫)
(1985/10)
夏目 漱石

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三四郎のそれからに当たる作品。主人公の名前は長井代助。三四郎の人物とは直接のつながりはないが、、三四郎を読んでいれば、この人はあの人(三四郎の登場人物)のことだなとわかる。
長井代助は三四郎。平岡は佐々木。ただ、三四郎でヒロインであった美繭子にあたる人が出てこない。三千代はよし子か?三千代の設定を見ると、よし子が一番ぴったり来るのだが。
代助は大学を卒業しても職業につこうとしない高等遊民。職業に汚されない時間を多く有するということに誇りを持つ。そこへ職業に失敗し、東京へ帰ってきた学生時代の親友、平岡とその妻三千代が現れる。自己の論理力に自信を持っていた代助だが、変わってしまった平岡と、かつて愛していた女性の出会いにより、次第に自らの論理を破綻させていく。耐え難いアンニュイ、水槽につけた鈴蘭。そして、禁じられた愛。
「それから」は「三四郎」の10年後の設定だろうか。変わり行く自らの運命、変わっていく人、淡い結末で終わった三四郎は、ここで現実世界に取り込まれてしまう。深い代助の論理力は、結末で完全に破綻。論理とは、独りよがりの論理とは、実生活の中で壊されてしまう、壊されなければならないのか。自己哲学の貫徹の危険と難しさ。大学生活と社会生活の狭間。「それから」は、私にテーマを与える。
世捨て人となった代助と三千代は・・・。


「門」
門 (角川文庫)門 (角川文庫)
(1951/02)
夏目 漱石

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代助と三千代の後日を描く、三部作のエピローグ的作品。
主人公は野中宗助。宗助は三四郎であり、代助である。その妻お米は三千代。
宗助はかつての論理力を失い、週六日の役所づとめを機械的にこなす。そこに人生の、社会的な喜びは皆無。あるのは妻、お米との生活だけ。東京という場所に住みながら、その息吹を感じることなく、又、感じようともせず、ひたすらに日常の平穏と繰り返しを思う。それを脅かすお米の病気、世間からの復讐、そして安井(平岡)の影。やがて宗助は神経衰弱にかかり禅寺の門をたたく。
淡々とした日常生活を描きながら、宗助の内面の苦悩をあぶりだし、その幸せの生命線の細いことに愕然とする。いつ破られるとも限らない日常。
結末を迎えても、宗助とお米はなんらの答えを得ることはできない。二人はこれからも危うい日常を延命していくしかないのである。

 ※本稿は以前に運営していたサイトからの転載です。

安部公房 その超現実主義の先

2009年03月15日 22:18

現代小説の革命。論理と破綻、妄想と夢幻。日常の崩壊。巨人・安部公房。
大学時代の終盤、私は安部公房に憑依された。狂人、人間の心理、都市空間の落とし穴、傍らにある不可視の落とし穴。顔を失った男、膝からカイワレが生えてくる男、名前を失った男、箱男、砂に幽閉される男、行方不明の探偵、救急車に誘拐される女、ひもじい同盟、未来とは、未来とは。
日本文学界における安部公房の位置なんて私は知らないが、安部との邂逅は電撃であった、革命であった。
安部公房という人間は狂っていたのか。これほどまでに狂人の内面、思考パターン、自己正当性、思考矛盾を描き出した安部公房という人間は、当事者なのか。それとも小説家という特異なストーリーテラーのなせるわざなのかもしれない。だとしたら、いずれにしても安部は狂人だ。


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